1月20日(金)第5回米山ゼミ

第5回米山ゼミ

「日本で唯一の原種豚の保存と認知の活動」
講師/楠田裕彦氏(METZGEREI KUSUDA)



神戸、芦屋でハム・ソーセージの製造・販売しているメツゲライクスダ。レパートリーは500種類を越え、常時30~50種類の商品が店頭に並ぶ。その商品をすべて1人で手がけているオーナー、楠田裕彦さんが今回のゲスト。
ゼミ担当の米山シェフ(パンデュース)に「腕よりもまず男前のシェフとして名を挙げた方ですが(笑)、ハムを作る腕もさることながら、お話もお上手」と紹介され、緊張した顔を少し緩ませた楠田さん。熱い講義になる予感を漂わせながら、第5回ゼミは始まった。


ハムが身近にあった少年時代

はじめまして、メツゲライクスダの楠田です。“メツゲライ”という言葉は、皆さんあまり聞き慣れないかもしれませんが、これはドイツ語で“精肉店”という意味です。
なぜ僕がヨーロッパのハム・ソーセージの仕事に就いたかと言いますと、僕の父がもともとハム職人で、高度成長期前のハムメーカーに就職していました。そのころ職人も多く、燻製などの部署に一人一人いました。日本の高度成長と共にハムは保存が利くようなものになり、大量生産が必要になったので、父は他ハムメーカーから引き抜きという形で、工場長として異動しました。しかし、大量生産などに疑問を抱き、昭和42~3年ごろに退職。そして神戸で一番古くからやっているハム屋で手づくりのハムをつくることになりました。僕は幼稚園に入る前から父の職場によく遊びに行っていました。父は邪魔だと思っていたでしょう。肉をさばいたりしているので、危ないから端っこに連れて行かれて、ソーセージを切るお手伝いを任されていました。今となっては、そのころからハム職人として仕事に携わっていたのかなと思います。
そして小学校4年生になる前に父から突然、「鹿児島に行くか?」と言われ、僕は遊びに行くつもりで行くことにしました。兄も一緒に屠殺場の横にある百年以上前からあるような穴の開いた家で住み出しました。家の補強も自分たちで行い、お金もないので父がドラム缶をどこかからもらってきて、隣の屠殺場から持ってきた肉でベーコンやハムを作り、それらを行商のような形で売りに行っていました。今は法律上そういったことはなかなか難しいのですが、当時は鹿児島の田舎の方でそういった生活ができていました。30年ほど前の話です。学校から帰ってくると必ず手伝いをしていました。


ヨーロッパ修行、そして日本へ

ヨーロッパに行こうと思ったのは高校のとき。父親の机にあったヨーロッパのハム・ソーセージの資料を見つけ、それを見た瞬間、ヨーロッパで修行しようという気持ちになりました。本当は高校卒業と同時に行こうと思っていましたが、海外への紹介や金銭的な問題もあったので、自分でお金を稼ぎながら留学費用を貯めました。そして阪神淡路大震災の翌年に、海外での修行先を紹介してくださる方が見つかり、ドイツへ留学することになりました。ドイツ南部のバードザブルグというところで、スイスやオーストリアの国境に近い街でした。そこでは3年間過ごし、その後はフランスへ。長い間、海外で修行するつもりでいましたが、父が病気になったので帰国することになりました。ヨーロッパに想いを残しながらの帰国でしたが、鹿児島の父が働いていた工房で工場長として働くことになりました。
ドイツでもハムやソーセージを作っていたので、日本でも自信を持って製造するつもりでいたのですが、日本ではなかなか上手くいきません。約2年間は納得して販売できるものが作れず、その間に何に悩んでいたかを洗い直しました。そして原材料や保存料、補助剤を入れなければ、ドイツの製法では全くできないことに気づきました。父は補助剤など考えずに、肉本来の力で伝統的な製法により作っていたので、レシピも考え直しました。豚の品種自体はヨーロッパと同じなのですが、日本人が求める食肉は西洋人が求めるものと全く違います。日本人は淡い味、甘いうま味をすごく大事にしますし、脂が甘くておいしいとよく言います。しかし、それは日本人が求める方向であって、西洋人は脂をまず食べません。毎日、食肉自体を食べているので、脂があってもほとんど削いで肉だけを食べます。だから西洋では脂を甘く、柔らかくする必要はありません。固く締まった肉が求められます。日本でヨーロッパと同じ分量の肉で脂を入れると、分離したり溶けたりしてしまいます。タンパク質が脂を抱え込んでソーセージができるのですが、日本の脂は抱えきれないほど融点が低く溶けやすいのです。補助剤を入れれば本当に簡単にできるのですが、できるだけ使わずにおいしいものをつくりたいという想いがありましたので、レシピをつくるのに時間がかかりました。
このようにヨーロッパと日本では求められる加工肉が異なることに気づき、日本なら日本で手に入るものを使って原材料を理解していく必要がありました。


世界的にも有名なハム職人のお店で、僕の友人がパリにお店を構えています。“シャンピオンヌフランス”と書いてありますが、“フランスのチャンピオン”という意味です。ここはヨーロッパチャンピオンにもなっています。


アルザスはドイツとの国境近くで、これは働いていたときの写真です。パイ生地に包んでお肉を焼き上げ、冷製で食べます。


日本ではあまり見かけない太いソーセージです。豚の腸にお肉を詰めて後で燻製します。


“ブッシェリ”というのはお肉、精肉を販売するところ、“シャルキュトリ”というのは豚肉加工するという意味です。“ゼグマ”というのは親方の名前になります。


パーティーのサービスをしたりお惣菜を作ったりしています。そこにお手伝いにも行っていました。
週に2回フェルメール家のハムを50年も作り続けている方です。


神戸に“メツゲライクスダ”誕生

2004年に神戸の六甲道で独立という形でお店を始めました。ヨーロッパのときのようにお店の裏で作って表で販売するというスタイルです。お店を始めたとき、客寄せは一切しませんでした。でもオープンしてから数ヶ月は閑散としていて、このままではお店を締めないといけない状態でしたので、危機感を持ちチラシを配ったこともあります。しかしちょうどそのころ、朝日新聞で手作りのハム職人として取材され、そこからハム職人として認知していただき、毎年お客様が増えていきました。当初は豚の内臓だけで作るソーセージや、豚の血のソーセージ、豚の頭で作るゼリー寄せなどを作っていたので、「変わった店があるよ」と噂にはなっていたようです(笑)。豚の血のソーセージなどは最初、苦情もありました。温めると少し柔らかくなると商品の説明はちゃんとしているのですが、買って帰った後、どろどろになるまで温めたり、買って帰ったけどやっぱり食べられないと言われたり。納得済みで買っていただいたのに苦情を言われ少し困る面もありました。でも作り続けていくうちに、そういったお客様は今では僕のお店の大ファンになっていただきました(笑)。
2009年には、より良いものを作るために工房を探し、芦屋店をオープンしました。ここでは六甲道店よりヨーロッパに近い設備を入れてハムを作っています。ヨーロッパで初めてハム屋さんに入った時の衝撃、ワクワク…そういった喜びをお客様にも感じてもらいたくて。前菜からデザートまですべてそろう店がコンセプトです。

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650種類ほどの商品を作ってきた楠田さん。ゼミ生におすすめ商品をきかれると、
「店頭で並んでいるもので50種類くらいはあります。毎週のように商品を変えたり季節によって変えたりしています。それだけ種類がありますからお客様によって好みがすごく分かれます。なのでおすすめは自分で食べて選んでもらうのが一番だと思います。」と笑顔で返した。
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ボンレスハムは、ドイツ語でいえばコッコシンケン。長期にわたり熟成させ、それを布で巻き上げて丸い形に成形します。そしてロープで巻いて低温で長時間茹で上げる。完成までだいたい10日ほどかかります。ベーコンはレンガの窯で3日間燻製してあります。当店のショーケースの中です。下の段にあるテリーヌは、お肉をミンチにかけていろいろなスパイスを混ぜて入れたり、ドライフルーツや野生の肉を合わせたりと、型に入れて焼き上げて販売しています。上の段には生ハム、スライスする大きなソーセージ、サラミが並んでいます。


アグー豚との衝撃的な出会い

ここからは、原種の豚についてお話したいと思います。
在来種の豚というのは日本本土にはいませんが、もともと琉球国である沖縄県に唯一の在来種の豚がいます。
2009年の秋、芦屋店で働いているときに、沖縄・今帰仁村の生産者である高田さんという方から突然、沖縄の“アグー”という豚の話を聞いてほしいと連絡がありました。東京生まれの高田さんは東京大学農学部を卒業後、財団法人進化生物学研究所で研究者をされ、1年ほど働いていたときに沖縄の在来豚のアグーと出会い、見た瞬間に沖縄への移住を決心されたそうです。
この連絡の後、店に村の方が来られ、日本で唯一の在来豚であること、豚に関する日本の食肉文化の現状についてお聞きました。その後、実際にアグー豚を送っていただき、すぐにさばいたのですが、そのときおかしいなぁと感じました。半身で一頭分送っていただいたのですが、今までの豚と骨の数が違っていたのです。なんでこんなに小さいのだろうと考えると、イノシシと骨の数が一緒だと気づきました。豚は背骨が22~23本ですが、それよりアグー豚は2本少なかったのです。イノシシじゃないのかなと思ったのですが、肉質は豚に近いのです。触ってみると豚でもイノシシでもない感じがしました。それが食べると口の中で今まで感じたことのない物凄い旨みを感じるのです。肉など脂分を食べると口の中にねっとりと残りますが、その豚は水を飲んだようにスーッと脂が引いていくのです。驚いた僕はすぐに電話をし、それから1ヶ月後くらいに沖縄の今帰仁村を訪れました。



沖縄の食文化を紹介するために撮った那覇の市場です。沖縄は大陸性の文化が入り込んだ食生活です。豚の頭、豚の内臓、豚の前足が並んでいます。みなさんソーキソバはご存知でしょうか?このお肉は、ソーキソバ用に四角に切ったスペアリブで、そこから降りてきた部分が三枚肉になります。この部分が沖縄の人たちにとって一番のごちそうの部位です。


これはスーチカの塩漬け肉です。昔から集落で豚を屠殺して、お祝いや行事ごとに食べたりするのですが、そこで食べきれない肉は保存しないといけません。沖縄は土地柄、塩を作っていたこともあり、お肉に塩をふり壷に入れて、塩漬けとして保存していました。暑いところなので多少、表面は酸化してしまうのですが、これが昔からの方法です。これにより、だいたい半年くらいはもたせていたと聞いています。味はものすごく辛いです。ヨーロッパにも同じようなものがあり、塩抜きをして、その汁をダシとして利用し、炒めものに使っています。


沖縄の精肉です。本土ではあまりないのですが、冷蔵庫の上に精肉を乗せて販売しています。アジアって風景ですね。


豚の内臓は、ゆでてぶつ切りにして販売しています。沖縄に行かれたことがある方はわかると思いますが、中身汁といってこの内臓をつかって味噌汁のように仕上げていきます。沖縄では内臓をたくさん入れた汁ものをよく食べます。豚肉はビタミンB群が豊富で疲労回復などに必要な食材です。暑い夏を乗り越えるにはそういったものを食べないとなかなか過ごせないので大切だ、と沖縄の人は昔から気づいていたようですね。


今帰仁アグーです。普通の黒豚じゃないかと思われる方もいるかもしれませんが、僕たちから見れば異様な体型をしている豚です。ロケットのような形です。放牧して豚は飼われています。最初に見たときには何が動き回っているのかわかりませんでした。豚をたくさん見てきましたが、一番豚相の悪い顔をしています(笑)。ものすごい怖い顔をしています。
オス豚です。全部が全部こういった顔をしているわけではありません。カ・セントの福本シェフも同行して訪れましたが、この豚の顔を見た瞬間固まっていました(笑)。僕も何回見てもすごい顔だなと思います。この豚は精肉になるのではなく、親豚として牧場にいる豚です。



お腹が地面につきそうなくらいの体型で、背骨も曲がっている、西洋品種ではない形です。このメス豚は妊娠していて出産一ヶ月前というところです。大きさも西洋品種に比べて小さく、体重も約半分程度です。ものすごくおとなしくて、賢い豚です。人間を理解し、自然共生を理解しているように思います。排泄する場所もここと決めたら必ずそこで行います。西洋品種だとそうはいきません。
今帰仁アグーは他の家畜と違って6頭くらいの子豚を生みます。また珍しい点として、他の豚は親が違えばミルクをあげないのですが、今帰仁アグー豚はどの子どもでもあげるんです。普通なら自分の子でない子は殺してしまうのですが、今帰仁アグー豚の子どもは色々な母豚のところに行ってミルクを飲みます。


原種豚の歴史と課題

在来のアグー豚は14世紀に大陸よりもってきたものではないかという説があります。そのころ沖縄にはまだ文字というものがなく、書かれた文献はありません。それより1千年以上前の貝塚時代に遺跡の中から豚の骨が発見されており、沖縄にはそのころから豚の文化があったと言われています。沖縄は土地自体肥沃ではなく、昔から食料を確保することは大変でした。なので豚の餌も粗食なものでしたが、アグー豚はその餌でも耐え、かつ肉質にも優れている豚として沖縄全土で飼われていました。

しかし原種の豚というものは生まれてくる数が少ないという問題がありました。廃藩置県後の明治37年、日本には西洋種が多く入ってきました。その流れは沖縄にも起こり、西洋種の払い下げで一気に在来種との交配が進みました。イギリスを主体にした遺伝子の操作によって、ハイブリットな種類が世界的に広がっていきました。当然人間に必要なものなので、人間の都合に合わせた豚がたくさんつくられて、生まれて早い時間で大きくなったりするような豚となりました。アグー豚のような胴が短くて背骨の曲がった豚ではなくて、胴を少しでも長くしてたくさんお肉がとれるような豚をつくり出しました。当然沖縄でもその豚が広まって、アグーの血を引く豚が一気に少なくなりました。

沖縄にアグー豚がいたと気づいたのは名護博物館の初代館長である島袋氏でした。彼は沖縄全島でアグー豚を探しましたが、見つかったのは30頭あまり。それを保護しようと18頭が集められましたが、ほとんどは西洋種の血が入ったものだったそうです。在来の完全な血というものは完全になくなっていました。島袋氏は博物館で豚を飼育することはできないので、北部農林高校という名護にある農業系の高校に相談して、その高校にアグー豚を集めることになりました。養豚業界など公的な団体は沖縄にもありますが、原種はお肉がたくさん取れない、子どもの数は少ない、脂が多いということがあり、今さらなぜ原種を広げるのかと依頼は拒否されたそうです。こうして農林高校に集められた在来の血を引く豚を戻し交配させました。今、ほとんどは三元交配という交配種の豚をつくって広めています。その方法を使って日本ではブランド豚がいっぱいつくられています。戻し交配とはその逆で、まず生まれた子供から雑種の要素を持つ個体をすべて取り外していきます。そして原種に近いもの同士を交配させて、また雑種の要素のある個体を取り除き、ということを何度も何度も繰り返して血の純度をあげていきます。そうして生まれたのが今帰仁アグーです。ものすごく難しい技術です。戻し交配はその性質、家畜を育てる経験だけではなく、科学的な面からも考えていかなければいけません。島袋氏は、研究者の立場から意見が言えるように、自らDNA解析ができるくらい独自で勉強したそうです。復元された今帰仁アグーの成功に伴って、それを知ってもらい、それを使って(食べて)いただかないと家畜は滅びる方向に向かってしまいます。今帰仁アグーを売り込まないといけないという目的もあって私のお店に来られたんです。


奄美大島の在来豚とされる奄美の黒豚です。奄美大島でも絶滅に近い状態でわずかしかいません。大昔、沖縄と交易をしていたときに流れてきた豚の種が沖縄に残って存在してきたということです。


動物のいのちをいただく、ということ

一昨年前、お店のスタッフを連れて沖縄で研修をしました。(写真・研修の様子)今では屠殺して集落で食べることは禁止されていますが、このときは屠殺をされていた方にお願いして豚を屠殺し、沖縄の方々がどういった文化を持っていたかを映像記録として残すことにしました。
屠殺後はすぐに一部の精肉を使って加工肉を作りました。沖縄の今帰仁で採れた塩と沖縄の胡椒、ハーブの代わりにヨモギ、豚の血を使い、ソーセージを作りました。アグーの豚の血はすごい栄養源になるのです。胃の中に精肉を詰め込んで、低温で焼いて食べるドイツ料理、腸の中にアグーの精肉を入れた腸詰も作りました。

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ハム・ソーセージなどの加工肉を作るにあたり、どうしても避けられないのは動物の生死に直面すること。ハム職人の楠田さんにとって、“いのちをいただく”ということは?
「僕が最初に屠殺を見たのは10歳のときでした。それ以前から豚の頭だったり、半分に割られたお肉だったりは身近に見ていましたが、それは今までにない衝撃でした。動いているものが動かなくなり、血を放血して絶命する。そして、それを職業としている父。その肉を使って加工し、それで生活をしているという実感はありました。僕自身、家畜が殺されてどういったものになるのか、お肉自体大切なのだと認知しました。実際、屠殺を見ることで何らかの精肉に対して変化があるのかなと思いましたので、一昨年に僕のスタッフを連れ、命を殺めてどういう感覚なのか、豚肉を加工して販売しているだけではわかりえないところもありますので体験しました。それ以降、仕事に対する意欲や動きは実際変わったと思います。」
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沖縄では南側に玄関を設けますので、北西の場所に豚が飼われていたそうです。太陽が昇ってくることを考え、日中豚が飼育されているところが影になるようにという理由もあります。昔は豚の飼育場所をトイレとして利用していたようで、人間の排泄物を豚が食べる、というサイクルになっていたそうです。これは沖縄だけでなくアジアでもそうですが、沖縄では戦後、米軍が入ってきた時にこの文化は一掃されてなくなってしまいました。今、こういった場所を探し見つけることは大変貴重だそうです。


アグー豚の認知に向けての活動

アグー豚が日本でも認知されるようになってきたのは、今から10年ほど前、BSE問題のときになります。BSEとは牛海綿状脳症といいまして、イギリスが発端として起こった問題です。みなさんご存知でしょうか?それ以降、世界的に食肉の背景が見直されることになりました。日本もBSEを発症した国の一つとして牛肉を敬遠する時期があり、豚や鶏などの食肉に目が行くようになりました。そこから一気にブランド豚をつくるため、三元交配をする流れができました。沖縄でもアグーの保存会をつくって純潔のものをみんなで育てようとなりましたが、純血種を育てることはあまりにも難しいです。お金もかかりすぎることもあり、アグーの中でも交配が進んでしまい、今、日本全国に出回っているアグーのお肉のほとんどが、純血種に比べ1/4以下かもっと薄いアグーの血を継いだものとして商標登録されています。日本では商業的な立場を止める機関というものがなかなかなく、在来種を登録する機関がありません。日本人ならではの背景もあり、その血の原産地の名前を付けられていても量産しにくいものがたくさんあります。そういったものは、ちょっと血を合わせたものをつくり、同じような名前を付けて量産し商業ベースにのせていきます。こういったことはアグーに限ったことではなく、日本ではよくある話です。道徳的な観点からはありえないことです。アグーの認知をもっと高めるためにどうすればいいのか考え、僕自身も保存活動に関わっています。在来種自体の登録機関がない日本では、いくら活動しても経済力を持っているところにはかないません。しかし、パリには国際登録機関というものがあり、それは豚だけではなく、いろいろな生物を保護するためのものです。そういったところに、今帰仁アグーが登録できないかどうか働きかけています。その動きの一環として、国際シャルキュトリ協会というものがあります。“シャルキュトリ”というのはフランス語で豚専門の食肉加工協会を表します。日本にはシャルキュトリ協会がありませんが、本部から「シャルキュトリ協会の日本支部を作らないか」と言われていますので、僕が日本代表として協会を立ち上げ、それを足がかりに今帰仁アグーをパリの登録機関に登録し、プレスリリースをかけていければいいなと思っています。それをすることで、日本にも必ず何らかの影響が来ると思っていますし、そうなると日本も認知せざるを得ないのではないでしょうか。日本にある多くの在来種の呼称制度の足がかりにできればといいなと思い、今いろいろと活動しています。
また保存・認知だけでなく、消費にも力を入れていきたいと思っています。今300頭あまり今帰仁アグーが飼育されていますが、この頭数では商業ベースには全くのっていません。今の状況では絶滅に近い状況です。せめて1千頭くらいまではもっていきたい、そのためにはやっぱりもっと認知していただかないといけません、豚自体ものすごく高価であり数が少ないので、認知をしてもらうことは価格にも比例してくることだと考えています。頭数が増えればもっと安くなります。僕は加工者なので、今帰仁村の高田さんをはじめ沖縄の方たちと協力し合ってできる、今帰仁アグーの6次産業化・加工販売を含めてできればいいなと考えています。


「人生を職人として終わりたい!!」

最後に、なぜハム職人として熱い想いがあるのかと言いますと、育ってきた環境自体が食肉加工という背景があります。小さいときから豚の頭などを運んだり、腸詰を作ったりしていましたから、それは切り離せないものです。父と鹿児島に行ったときから始まった貧乏な生活。ちょうどそのころ『北の国から』というドラマがありましたが、僕はそれを見て『南の国から』のように思っていました。穴の開いた家でひとつひとつ、父が家を修繕していく。本当に頑固な父でした。2009年、芦屋店をつくっているときに父は他界し、その店を見てもらうことは叶いませんでしたが、父は入院する前に最後に自分で作ったハムを食べ「わしもまだまだだなぁ」と言いました。50年以上ハムを作り続け、それでも「まだまだ」という父。それが職人というものだと思いました。豚で加工品を作り、それを売って暮らした日々はいつまでも忘れられません。なので自分の中では「食肉加工を職業として成り立たせたい!」という職人としての想いがあり、職人として生計が立てられればいいなと思っています。夢として日本で後継者を育てていきたいですし、職業として認知をしていただく活動をしていきたい想いもあります。将来のことはまったくわかりませんが、ヨーロッパでお店をやっている可能性もなくはありません。一番の気持ちは「人生を職人として終わりたい」ということですね。


ブログ「METZGEREI KUSUDA」
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